「ごんぎつね」教材分析(1)ストーリー
「ごんぎつね」は、光村図書をはじめ、さまざまな教科書にとられている定番教材です。教材研究の歴史も長く、さまざまな文献がありますが、子どもたちには、「つぐない」のために、兵十のところに毎日くりや松たけを持って行ったごんが、最後には兵十に打たれてしまうというラストが、まず大きな驚きです。
そのため、(何より自分自身の救済のために)「ごんは、分かってもらえることを望んでいたのだから、わかってもらえてよかった」というような読みや「ごんのことも考えずにうつ兵十はひどい」というような読みが生じます。これらの読みは、誤読ではなく、テキスト自身がそのような読みを誘発するように書かれている、というのが、最近の教材分析の流れですが、私も大筋ではそれに賛同します。
まず、ストーリーは、「ごん」と「兵十」という2人の登場人物を中心に展開します。特に「ある秋のことでした」からは、ずっと「ごん」の目を通して場面が描写されます。それは「二」「三」「四」「五」まで続きます。読者は、「ごん」に同化しながら読むことになります。
それが「六」の「そのとき兵十は、ふと顔をあげました。」から唐突に「兵十」の視点に切り替わり、「兵十」の心内語「こないだうなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな」が挿入されます。そして、それは最後まで続きます。
この視点の転換により、これまで「ごん」に同化してきた読者は、宙づりになったような気分になり、それが前述したような読みを生じさせるのです。
なので、ストーリーを軸に授業を展開するのであれば、このことを意識して、「ごん」と「兵十」それぞれのストーリーを確認しておく必要があります。そのうえで、最後の場面での「ごん」や「兵十」の思いを押さえておくのがよいでしょう。
「新聞」をつくろう
小学校4生の光村図書の教科書に新聞をつくる単元がある。これは、学習指導要領の3,4年の言語活動例に「調べたことをまとめて報告するなど、事実やそれを基に考えたことを書く活動」があり、そのまとめる形式として「学級新聞」が提案されていることによる。
活動の仕組み方としては、総合的な学習などでの活動がベースにあって、それの成果物として新聞をつくるというのが王道だと思うが、学校や地域をアピールする媒体として新聞をつくるというのも悪くないと思う。今回は、こっちの方で活動を仕組んでいる。
流れとしては、次のようになる。
(1)新聞の「形式」を考え、まとめ方についてイメージを持つ。
(2)新聞のテーマを決める。並行して作成するグループもつくる。
(3)各自が取材をし、記事を書く。
(4)見出しを考え、紙面への記事の割り付けを行う
(5)自己評価、相互評価をする。
実際には、取材をしていく中で、新聞のテーマが変わることもあるだろうし、最初から紙面のイメージをもって進めていくグループもいるだろう。
「つなぎ言葉のはたらきを知ろう」
「つなぎ言葉のはたらきを知ろう」は、光村図書の小4の教材で、接続詞の働きについて考えるもの。
「次の( )には『だから』『しかし』のどちらが入ると思いますか。また、それはなぜですか」というのが最初の問いで、次の2つの例文が載っている。
(1)雨がふりそうだ。( )、かさを持っていく。
(2)雨がふりそうだ。( )、かさを持っていかない。
なかなか面白い問いだが、教科書会社の「学習指導書」を見ても、この答えが載っていない。これは、
雨がふったら傘を持つのが当たり前だと思っているので、後に「かさを持っていく」がつづく(1)には、予想される「だから」が入り、予想とは反対の「かさをもっていかない」が後につづく(2)には、「しかし」が入る
というのが妥当だと思われる。
このように考えないと、次の課題を考える面白さが半減してしまう。
「一つの花」どうしてお父さんは「一つだけのお花」をゆみ子にあげたのか?
光村図書4年生の教材「一つの花」(今西祐行)、前回の課題が意外と難しかったので、今回はもう少しやさしめにする。
「どうしてお父さんは『一つだけのお花』をゆみ子にあげたのか」
本文から素直に読み取れることは
・ゆみ子がおにぎりをみんな食べちゃって渡すおにぎりがなかったから
・プラットホームのはしにコスモスの花を見つけたから
・最後にゆみ子の泣き顔でなく、笑う顔が見たかったから
あたりであろうか。
おにぎりがあればおにぎりを与えて、汽車に乗ったであろう。しかし、おにぎりはない、そこでなにか他に与えるものを考えて、たまたまコスモスを見つけたのであろう。
その結果、ゆみ子は笑ってくれた。してみると、何個かのおにぎりをもう食べてしまっていたゆみ子である、おなかが空いていておにぎりを求めていたというよりも、「あるのならばほしい」という状況であったのであろうか。批評家の中には、ここでのゆみ子の反応を不自然だと糾弾する向きもあるようだが、それは戦争文学はこうあるべきという思いにとらわれすぎているからであろう。また、「おにぎり」が「花」に変わったことや「数あるもののうちの一つ」から「たった一つ」に変わったことに象徴的な意味をとる向きもあるようだが、それが父親の考えであるとまで読むのは、やはり不自然な気がする。
補助発問をするとすれば
「ゆみ子の反応を見たお父さんはどうだったろうね」
くらいで十分でないか。キャッキャと喜ぶゆみ子を見て、うれしく思ったお父さんは安心して汽車に乗ったであろう。
最後の場面でコスモスが登場するが、ここではそこにあまりこだわらずに読んでいきたい。
「一つの花」なぜゆみ子は「かわいそう」なのか?
光村図書の4年教材「一つの花」(今西祐行)の授業を進めている。
今回の主発問は「父や母は、なぜゆみ子を『かわいそう』と言ったのか?」
考えさせると、子どもたちが注目するのは次の箇所
「なんてかわいそうな子でしょうね。一つだけちょうだいと言えば、なんでももらえると思っているのね」
次のような答えが返ってくる。
・ゆみ子が「一つだけちょうだい」という言葉を言っているから
・ゆみ子が、一つだけちょうだいと言えばなんでももらえると思ってるから
そこで、「なぜ~なのか」という問いの答え方について確認する。
(1)「なぜ、腹を立てたのか」というような気持ちを問う「なぜ」は、気持ちのきっかけとなる出来事を答える
→「横入りをされたから」「悪口を言いふらされたから」
(2)きっかけと気持ちがすんなり結びつかないときは「考え」も付け加える。
→「なにも答えないので無視されたと思ったから」
(3)「なぜ、涙を流したのか」というような行動を問う「なぜ」は気持ちを答える
→「くやしかったから」「腹が立ったから」「悲しくなったから」
(4)気持ちと行動がすんなり結びつかない時は「考え」で答える
→「無視されたと思い悲しかったから」
上の「一つだけちょうだいと言えば何でももらえると思ってる」というのは、本文中の言葉なので間違いではない。しかし、そのことがなぜ「かわいそう」という父や母の気持ちとつながるのか考えさせたい。
すると何人かの子どもは、次のように考える。
・ちょうだいと言えばなんでももらえると思うと、ゆみ子が将来なんでもほしがる子になってしまうから
これは「一つの花」あるあるだそうだが、子どもとしては合理的に考えているわけであるので、その意味では悪くない答えである。
ただし、作品の読みとして問題になるのは、父親の以下の発言と整合しないことである。
「この子は、一生、みんなちょうだい、山ほどちょうだいと言って両手を出すことも知らずにすごすかもしれないね」
父親は、むしろ我慢しないことを望んでいるわけなので、
・なんでも「一つだけちょうだい」ということで、将来なんでも我慢する子になってしまうことを心配しているから
というのが、こちらがわが期待する答えなわけだが、なかなか難しい。
とりあえず、「いったい、大きくなって、どんな子に育つだろう」というお父さんの心配はどうなったかな?」と聞き、その心配は杞憂に終わったことだけをおさえて、とりあえず授業は終えた。
ひょっとすると、ここは教師の読みを語る必要があるところかもしれない。
「一つの花」の語り手
小学校4年生、光村図書の教材「一つの花」(今西祐行)、今回は語り手について。
「ゆみ子は、いつもおなかをすかしていたのでしょうか。」
「お母さんは、戦争に行くお父さんに、ゆみ子の泣き顔を見せたくなかったのでしょうか。」
「それは、あのお母さんでしょうか。」
読者に対して投げかけられる質問は、しかし、それ以外の答えを想起させない。
ゆみ子は空腹だったろうし、お母さんの考えはそうだったろう。そして、ゆみ子の出てくる家でミシンを踏んでいるのは『あのお母さん』に違いない。
どうして、この語り手は、こんなしらじらしい問いを投げかけるのだろう?
それは、あるいは
「自分にお父さんがあったことも、あるいは知らないのかもしれません。でも、今、ゆみ子のとんとんぶきの小さな家は、コスモスの花でいっぱいに包まれています。」
のところで、読者に「ゆみ子は父親のことを忘れていない」と言わせたいからなのかもしれない。
私が学生のころ、語り手を問題にする読み方が流行したことがあった。語りの虚構性を問題にし、その裏に物語の真実が隠れているというような読み方が。しかし、この作品では、そういうことは考えなくてよさそうだ。
「一つの花」のあらすじをつかむ
校4年生の光村図書「一つの花」を読む。
「あらすじ」か「感想」のどちらかを書かせたところ、半数くらいが「あらすじ」を書いてきた。
ざっくり分けると、
・「一つだけ」と言って、食べ物をもらっていたゆみ子が、出征する父親に「一つの花」をもらってよろこぶ話
・母親や父親に大切にされていたゆみ子が、今はちいさなお母さんになって手伝いをしている話
・父親から一輪のコスモスをもらったゆみ子が、今はたくさんのコスモスにかこまれている話
というところ。
もう少し抽象化していうと、最初の1つは、前半の部分に焦点化し、最後はあらすじに含めていない、あとの2つは、最後の場面まで含めてあらすじにしている。
あらすじをつかむうえで、教科書の松永禎郎氏の挿絵を手掛かりにしてもよいかもしれない。
挿絵は全部で5枚
A いくらでもほしがるゆみ子に「一つだけ」と言って渡す母(p69)
B 「いったいどんな子に育つだろう」とゆみ子を高い高いする父と見つめる母(P71)
C 母におぶわれて父の見送りに行くゆみ子(P72)
D 泣きだしたゆみ子に一輪のコスモスを渡す父、それを見る母(P75)
E コスモスのトンネルをくぐって出ていくゆみ子(p77)
AとDは、ゆみ子が物をもらうということは共通しているが、母と父、食べ物と花、たくさんと一輪、家の中と外という違いがある。
また、DとEを比較すると、どちらもコスモスが登場するが、一輪かたくさんか、父がいるかいないかといった違いがある。
さらに、BとEを比較すると、どちらも笑顔のゆみ子だが、父のいるいない、自立していないかいるか、といった違いがある。
もちろん、対比することそのものが目的でなく、挿絵をてこに物語の展開をふりかえりあらすじを大きくつかむことがねらいである。