「一つの花」の語り手
小学校4年生、光村図書の教材「一つの花」(今西祐行)、今回は語り手について。
「ゆみ子は、いつもおなかをすかしていたのでしょうか。」
「お母さんは、戦争に行くお父さんに、ゆみ子の泣き顔を見せたくなかったのでしょうか。」
「それは、あのお母さんでしょうか。」
読者に対して投げかけられる質問は、しかし、それ以外の答えを想起させない。
ゆみ子は空腹だったろうし、お母さんの考えはそうだったろう。そして、ゆみ子の出てくる家でミシンを踏んでいるのは『あのお母さん』に違いない。
どうして、この語り手は、こんなしらじらしい問いを投げかけるのだろう?
それは、あるいは
「自分にお父さんがあったことも、あるいは知らないのかもしれません。でも、今、ゆみ子のとんとんぶきの小さな家は、コスモスの花でいっぱいに包まれています。」
のところで、読者に「ゆみ子は父親のことを忘れていない」と言わせたいからなのかもしれない。
私が学生のころ、語り手を問題にする読み方が流行したことがあった。語りの虚構性を問題にし、その裏に物語の真実が隠れているというような読み方が。しかし、この作品では、そういうことは考えなくてよさそうだ。