国語教育デジタルポートフォリオ

考えたこと、知り得たことをあれこれ記録

掛詞

昨日の言語文化学会での国文学教授の発言「一度世に出したものは専門外のものでも間違いがあれば指摘される。」「それも本人が忘れた頃に指摘される」というのを思い出し、今書いている「掛詞」についての原稿について、もう一度アウトラインをつくってみる。

鈴木健一「古典詩歌入門」は、詩歌の本質に「多義性」をあげ、「意図された、いわば技法のとしての多義性」と「意図されずに生じる多義性」とに分けている。そして、「掛詞」を「意図された多義性」の1つとする。したがって、実際に歌を鑑賞する上で、歌中の言葉が「掛詞」であるかどうかの判断は、歌人の意図を想像しないとできないことになる。

鑑賞者が「掛詞」と判断しないと「歌意」がとれない場合、鑑賞者の判断は簡単である。その言葉を「掛詞」として解釈することで解釈が確定する。一方、歌意が取れる歌でも、ある言葉を「掛詞」と判断することで「歌意」がより豊かになる場合に、鑑賞者が掛詞と判断することもある。

では、掛詞かどうかの判断は鑑賞者の恣意性に任されているのか。鑑賞レベルではそうかもしれないが、研究という以上、それではまずいだろう。

どのような場合に、その歌人は掛詞を使用しているのか、それぞれの歌について総合的に検討し、さらにそれらを付き合わせて判断する、という作業をした上で確定していく必要があるだろう。

ここまで書いて分かった。こういう発想は、自分が大学の卒業研究で考えた、Grice流の意味の算定という発想だんだな。まだ影響から脱していないのか。やれやれ。