国語教育デジタルポートフォリオ

考えたこと、知り得たことをあれこれ記録

文法的な条件での作文

文法、文の成分の授業というと、すでにある文の分析をすることが多い。文の成分について教えて、実際の文の分析をさせるのだ。もちろん、実際には、我々が日常的に生成する文は複雑すぎて、かなり制限された状態で行うのだが。
今回、構想した授業は、文法的な条件を示し、それに合致した文を作らせるというもの。絵本の絵を参考に文を作らせてみた。
やってみてわかったのは、これがかなり難しい課題だということ。ほとんど出来ない。しかし、やっていくなかで、様々な気づきがある。この辺をちゃんとまとめてみたい。

「アイスプラネット」

光村中2の教科書に載っている「アイスプラネット」(椎名誠)。

以前はいそうろうの「ぐうちゃん」(おじさん)の話を面白がっていたが、最近その話を「子供っぽい」「ばかばかしい」と感じ始めている「僕」。その話をうっかりクラスメイトにしてしまい「ありえねえ」と言われたことをきっかけに、「僕」は「ぐうちゃん」の部屋には行かなくなる。しかし、少し長い仕事から帰ってきた「ぐうちゃん」の部屋を久しぶりに訪れた「僕」は、「ぐうちゃん」から、いそうろうを卒業して旅に出ることを聞かされる。せっかく話を聞く気になった「僕」は、「ぐうちゃん」のいなくなった部屋の前で、「ほらばっかりだったじゃないか」と思う。しかし、しばらくして「ぐうちゃん」から届いた手紙で、「僕」は「ぐうちゃん」の話がほらではなかったことに気づく、という話。

最後の手紙で、それまでの読みが修正される(もちろん予想はつくが)ので、あらすじを1文でまとめることは難しい。構造としては、出会いの部分が省かれているが、日常とは違うものが訪れて去って行く「羽衣型」の物語になる。

「母」やクラスメイトに代表される『日常』からすれば、「ぐうちゃん」の見てきた世界は「ありえない」『非日常』の世界である。子供っぽい世界と言ってもいい。しかし、最後の手紙で、「ありえない」という言葉が、「ありえない」からウソなのでなく、「ありえない」ことに満ちているから世界は素晴らしのだと、巧みに変換されている。

これから「僕」がどちらの世界で生きていくのか、読者である自分たちは、どちらの世界で生きていくのか、母や父の「ぐうちゃん」との距離の取り方も含めて考えさせたい教材。

「にじの見える橋」

光村中1の教科書に載っている「にじの見える橋」(杉みき子)。
「具体的な形になっていないもやもやが、いくつもあった」少年が、雨上がりに虹を見たことをきっかけに、「初めて、自分のことを恵まれたものに感じ」るという話である。
では、なぜ、虹を見ることが、もやもやの解消につながったのか。
少年のもやもやした気持ちの正体は、「いっそぬれるなら、もっともっとずぶぬれになったら、かえってさばさばするだろうと思う」という表現から分かるように、「中途半端」という言葉で言い表せる。(「具体的な形に」なっているもやもやにしても、「仲たがい」「こづかいが足りない」とあるように、中途半端なものである。)少年という「中途半端」な状態に、少年はいらだっているのである。
しかし、少年は、「中途半端」の利点に気づく。「かさをすぼめた人たち」(大人たち)は虹を見ようとしないし、いち早く虹に気づいてさけんだ「小さい子供たち」は、少年のように歩道橋から虹の全てを見ようという知恵がない。大人でも子供でもない「少年」だから、虹を本当に見ることができる、その利点に気づくのである。
そう考えると、この話が、雨でも晴れでもないにじの時間の、あちらでもこちらでも、上でも下でもない歩道橋を舞台にしていることは象徴的である。
中途半端というキーワードで読み解ける教材。

コーパスを利用した授業(2)

コーパスを使った授業を進めるうちに、これまでの実践などを調べる気持ちになった。英語教育や日本語教育にいくつか実践論文があり、それらを読むうちに、その源流がイギリスのケンブリッジ大にあることが分かった。
ティムジョーンズという教授が、外国人に英語を教えるときに開発した方法で、
「データ駆動型学習」(Data Driven Learning )と呼ばれる。コーパスのKWIC検索を用いる中で、検索語の使用状況や、文法規則などを、学習者自らが発見していくという方法である。
今回、この考え方と比較することで、自らの実践の意義や問題点を考えてみようというのである。
(つづく)

コーパスを利用した授業

コーパスとは、「言語研究に使えるようにあらかじめ整備された言語資料」をさす。具体的には、
・研究の範囲を決め、資料を収集する。
・利用しやすいように整備する。
ことがまず求められるので、索引付きの本文などもコーパスと言えなくもない。
また、今日的には、PCで検索できることが求められるので、合わせて、
・さまざまな形で入力されたデジタルデータであること
・さまざまな検索ツールで利用できること
も求められていると言っていいだろう。

これまで日本語コーパスといえば、「新潮文庫の100冊」や青空文庫、さまざまな研究者がネット上で公開しているテキストデータなどが利用されてきたが、国語国語研究所のBCCWJ(現代日本語書き言葉均衡コーパス)のWeb公開によって、教育現場などでも利用することが可能になった。

私自身は、web自体をコーパスとして活用したり、紙ベースで同様の学習を展開したりしてきた。
(つづく)

コーパスを利用した授業

コーパスとは、「言語研究に使えるようにあらかじめ整備された言語資料」をさす。具体的には、
・研究の範囲を決め、資料を収集する。
・利用しやすいように整備する。
ことがまず求められるので、索引付きの本文などもコーパスと言えなくもない。
また、今日的には、PCで検索できることが求められるので、合わせて、
・さまざまな形で入力されたデジタルデータであること
・さまざまな検索ツールで利用できること
も求められていると言っていいだろう。

これまで日本語コーパスといえば、「新潮文庫の100冊」や青空文庫、さまざまな研究者がネット上で公開しているテキストデータなどが利用されてきたが、国語国語研究所のBCCWJ(現代日本語書き言葉均衡コーパス)のWeb公開によって、教育現場などでも利用することが可能になった。

私自身は、web自体をコーパスとして活用したり、紙ベースで同様の学習を展開したりしてきた。
(つづく)

「星の花がふるころに」

勉強会で採り上げた、光村中2の新教材。以下があらすじ
「大好きだった」銀木犀の木の下に、友だちの「夏実」といれば「大丈夫」と思っていた「私」。中学に上がってもずっと親友でいようと約束していたのに、何時の間にかすれ違ってしまう。「夏実」と仲直りすることも新しい友だちをできない「私」だったが、「戸部君」や公園で出会った「おばさん」との関わりを通して、最後には「大丈夫、きっとなんとかやっていける。」と思えるようになる。

「大丈夫」から「大丈夫」へと。「(銀木犀の)木に閉じ込められた」から「銀木犀の木の下をくぐって出た」へと変化する話。